話の束

本業のかたわら、たまに本も書いています。それとは別で、きままにエッセイとか小説とか、ぽろぽろと書いてみたいと思いました。

どれだけ苦しくても、経営者にメンターはいない

だいたいの年収が3000万円になって思うことがある。

 

僕が今成功している原因があるとすれば、それは単純に運がよかったからだ。

 

その上で、行動面で良いことがあったとすれば、それはなんだろうか、ということを考えた。

おそらくそれは3つある。

 

第一に、それは「自分の運を疑わなかった」ことにあるだろう。

 

独立して、借金で生活していた時期もある。

けれどもその状態でも、自分は何とかなる、と思っていた。

奇しくもそういうタイミングに限って、10年ぶりのクライアントから連絡を受けたりして、なんとかなってきた。

 

 

第二に、勉強だけはちゃんとした、ということ。

 

仕事柄、新しい情報が必要だ。それも市場に出回るような情報ではなく、アカデミックでかつ実証がされていないレベルのもの。

そんな情報にお金をかけて集めて、そして自分の言葉に変えていった。

 

 

第三に。これが多分一番大事だ。

どんなに苦しい状況でも、僕は誰にも相談しなかった。

 

正直、この行動はあまりお勧めしない。

ダメだったらどつぼにはまるから。

けれども僕の場合には、自分の運をまったく疑っていなかった。

だから妻に渡す生活費についての借金が300万円を超えても、来月の収入予測がまったくたたなくても、僕は誰にも相談せず、ただ自分が信じる行動だけをとっていた。

 

そしてどれだけ泣きそうになっても、誰にも愚痴を言わなかった。

たまにひとりで泣くことはあったけれど。

 

メンターというか、相談できる相手を探そうとしたタイミングもある。

 

けれども、しょせん経営者にメンターはいないのだ。

孤独を楽しめなければ経営者にはなれない。

 

ただ、僕は全ての人が経営者になるべきだと思っているので、それはつまりすべての人が孤独を楽しめるようになるべきだ、と思っているということだ。

 

それは多分無理なのだろうけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初めて行った街は懐かしい感じがした

遠い街への出張が多かった。

けれどもそろそろ50にもなるので、少しは後進に道を譲って、出張を減らそうと思っていた。

そんなとき、西日本のある街への出張の依頼があった。

 

行ったことのないその街の名は、懐かしい友人の故郷だった。

僕は二つ返事で出張を引き受けた。

 

日曜日に前泊するために、少し遅い時間に移動した。

少し前にあった災害で、手前の駅で電車が止まっているということだった。だからそこで下りてタクシーを使う予定にしていた。

けれども、乗り合わせた人たちが下りる様子がない。

尋ねてみると、今日から復旧したとのことだった。

そして数分後、僕はその街に下りた。

 

出張の間、僕は街の様子をずっと眺めていた。

朝、車で移動するときには、たくさんの学生たちが自転車で登校していた。

夕方、仕事を終えて歩いていると、買い物をする女性や、並んで歩く老夫婦、にぎやかに走る子どもたちがいた。

 

街の写真は2枚だけ撮った。

街の名前を入れて、2枚。

 

出張を終えて僕は今、また電車に乗っている。

懐かしい友が生まれ育った街を思い返しながら。

ああ、あの街で彼女は育ったのだなぁ、と思い返しながら。

 

彼女と僕は仲が良かった。

でもそれは男女としてではなく、本当に友だちとしてだった。

先輩や同級生は彼女を口説こうをすることが多かったけれど、なぜか僕にはその気が起きなかった。

二人で酒を飲んだりして、帰れなくなって泊めてもらったこともあった。

友だちとして話し込み、目覚めた朝には礼を言った。

快活な褐色の笑顔が心地よかった。

 

学校を卒業してからも何度か会うことはあった。

けれどもやがて自然と疎遠となった。

共通の友人を通じて、結婚したことを聞いたときには、僕ももう結婚していた。

同窓の集まりに顔を出してくることはなかったけれど、子どもが3人生まれたとか、自然の豊かな山の方に引っ越したらしいとかの話は聞いていた。

 

最後に聞いたのは去年だ。

ご主人がSNSを通じて、同窓会の幹事に連絡をくれた。

乳がんで亡くなったとのことだった。

そのことを伝え聞いて、僕はなぜか彼女が生まれ育った街の名前を思い出した。

そしていつか行かなければいけない、と感じた。

 

そうして訪れた街は、初めてなのにとても懐かしい街だった。

 

 

 

 

妻が僕の子育てに不満を持つ理由がわかった

イクメンだとか、父親が子育てに参加とか言われているけれど、僕は結構やっている方だ。

妻が仕事で遅い時には洗濯や掃除もするし、子どもの朝ごはんや晩ごはんだって作る。

妻の方が比較的自由時間が多いので、家事の時間は確かに妻の方が圧倒的に多い。

けれども、僕がその間寝そべってテレビを見ているわけではなく、締切に追われて原稿を書いていたり、本業の仕事についての資料を必死で作っていたりする。

そもそも僕はテレビも見なければ音楽もほとんど聞かないし、趣味らしい趣味は何もないので、何もすることがなければ仕事をしているからだ。

まちがえた。

仕事をしているか、風呂に入って本を読んでいるか、だ。

風呂に入ることが僕の趣味かもしれない。休日には普通に三回は入るし。

 

で、そうこうしながら自分はそれなりにイクメンの要素を満たしているとは思っていたのだけれど、どうも妻の機嫌が芳しくない。

そしてその理由にやっと気づいた。

 

妻が子育てに対して不機嫌になるタイミングは、ほぼ同じだった。

それは僕がこういうことを言った時だ。

 

「人生なんてやり直しはいくらでも効くんだから好きにやらせた方がいい。子どもには子どもの人生があるんだから」

 

この言葉は、大きく間違っていることに気づいた。

 

「子どもには子どもの人生がある」

 

僕は自分がそういう感じに育てられてきたので、子どもにもそういう接し方をすべきだと思っていた。

けれども、妻は、それを突き放している言葉だと理解していた。

そして、たしかに僕の中に「突き放している部分」はあるのだ。

 

それは、僕が僕の家族を僕の一部にしかしていないことだ。

それもわりと、仕事と同じか少し仕事よりも重要度が低いくらいに。

僕は、「子どもには子どもの人生がある」といいながら、実は「僕には僕の人生がある」と言っていただけなのだ。

そして妻にはこう聞こえていたのだろう。

「子どもには子どもの人生があって、君には君の人生があって、それは僕の人生とは深く関わってはいるけれど、いつまでも一緒ではないよね」

 

それはたしかに突き放している言葉だ。

このことに気づいて、とりあえず、三人の時間を僕からの発案で増やそうと思った。

人生を一緒に歩く、っていうことは、結婚とか出産の時に、もう少し意識すべきだったんだろう。

期待を示すのは嫌だし、要求もしたくない。

けれども、手を伸ばせばすぐに届くところにいるためには、僕の方からもう少し近づかなければいけない。そのためには、あまり合理的にならずに、小さなことだけでも要求してみるべきなんだろう。

 

 

 

 

こんなことは妻にも子どもにも伝えていないけれど。

 

 

 

 

 

 

 

いつ死んでもいい、といつも思ってる

僕は多分、死ぬことに躊躇がない。

というか、失うことに躊躇がない。期待がないから、得ることにも興味がない。

 

ある朝、目が見えなかったことがある。

起きてみたら目の前が真っ白だった。目をこすっても、瞬きしても、何も見えなかった。

 

ああ、失明したか。

 

そう思った。

 

次の瞬間、「まあいいか」と思った。

 

目が見えなくてもできることがあると思った。

とりあえず、妻に何をどう話せばいいだろう、と思った。

そこは出張先のホテルのシングルルームでもあったから。

僕は、失ったものにこだわらなかった。

 

手探りでPCを探したけれど、ああもう見えないから意味がないのか、と思った。

だとすれば、携帯電話で話さなければ、と思った。けれども、携帯電話がどこにあるのかもわからない。

さあ、何をどうすればいいだろうか、と、見えぬ目を開いたままで考えていた、

 

目覚めて十分くらいが過ぎて、次第に光が戻ってきた。

後から知ったのだけれど、寝る間際にスマホなどの光源を見ていると、目覚めた時に瞳孔がうまく機能しなくて、何も見えなくなるときがあるそうだ。

僕もその状態だっただけのようだった。

結局、僕は今も目が見えている。

 

ただ、この時の経験は、僕にとって慧眼だった。

失った時に、うろたえなかった僕がいる、というだけで、僕は今生きていく自信を得ている。

 

どんな状況で死にかけたとしても、多分、僕は笑って死ねる。

苦痛は嫌だけれど、死ぬこと自体に対して、多分「まあいいか」と思いながら死ぬだろう。

自ら死のうとは思わないけれど。 

 

 

僕が期待を嫌う理由

自分が成功することはかけらも疑っていなかった。

けれど、期待されることは嫌だった。

 

だから僕は一人娘には、まあ、生きていてくれればいいや、というくらいにしか思っていない。

それ以外は好きにすればいいし、必要なら大抵のものは与えている。

妻がそうではないことが、もっぱらの悩みではある。

妻は娘に期待をするし、それに応えなければひどく叱責をして、成功すれば褒める。

けれども、期待は繰り返されて終わることがない。まるで牢獄の様だ。

 

ただそれは、僕が仕事にいそがしすぎて妻の相手をできていないことも原因だ。

だから子どもの事が気にならないくらいに相手をしてやればまた変わるだろう。

 

仕事柄、相対的幸福の話をすることがある。

年収400万円の人たちの中で年収500万円を受け取ることと、年収1000万円の人たちの中で年収600万円を受け取ることと、どちらが幸せだろうか、ということだ。

単純に額面で言えば年収600万円なのだけれど、人はそういう風には考えられないということが経済学では示されている。

 

しかし実は、当の本人である僕自身が、相対的に恵まれれば幸福になるという心持ちがわからない。

僕はむしろ絶対的幸福が欲しいから努力してきた。

その絶対は、他人と比べるようなものではない。

誰かよりもいい生活をしたいのではなく、僕がしたい生活をしたい。

誰かよりも自由がほしいのではなく、僕が考える自由が欲しい。

年収500万円よりも600万円の生活がしたいのではない。人に命令されずに糧を得たかったし、時間にとらわれずに想いを巡らせたかった。

それは相対の中にはなかった。

だから僕は期待されることがとても嫌だった。

 

期待とはつまり相対の中にある。

絶対が基準の人は期待をしない。

このことがわからない人が、なぜ多いのか、僕にはそもそもそこからが理解できない。

 

端的に言えば、スポーツ競技の応援をするという人はすべて相対の人だ。

だからスポーツ競技の応援をする人と僕は理解しあえるとは思っていない。

あなたはどうだろうか。

 

つい、さよなら、とうつ

何もおもわずにキーボードの前に座る。

なんとなしに検索窓にカーソルをあわせる。そして考えずに文字をうつ。

 

気が付けば、いつも同じ四文字をうっている。

 

世をはかなんでいるわけでもないのに。

過去は忘れなければいけない

僕たちは過去を覚えていない。

誰かに思い出されるまでは。

過去の事実を思い出して、

過去の思いを思い出して、

そして時間を巻き戻してしまう。

 

僕たちは過去を忘れなければいけない。

思い出した過去を忘れなければいけない。

それは逆説でも風刺でもなく、

ただ、忘れることで救われるからだ。