話の束

本業のかたわら、たまに本も書いています。それとは別で、きままにエッセイとか小説とか、ぽろぽろと書いてみたいと思いました。

僕が期待を嫌う理由

自分が成功することはかけらも疑っていなかった。

けれど、期待されることは嫌だった。

 

だから僕は一人娘には、まあ、生きていてくれればいいや、というくらいにしか思っていない。

それ以外は好きにすればいいし、必要なら大抵のものは与えている。

妻がそうではないことが、もっぱらの悩みではある。

妻は娘に期待をするし、それに応えなければひどく叱責をして、成功すれば褒める。

けれども、期待は繰り返されて終わることがない。まるで牢獄の様だ。

 

ただそれは、僕が仕事にいそがしすぎて妻の相手をできていないことも原因だ。

だから子どもの事が気にならないくらいに相手をしてやればまた変わるだろう。

 

仕事柄、相対的幸福の話をすることがある。

年収400万円の人たちの中で年収500万円を受け取ることと、年収1000万円の人たちの中で年収600万円を受け取ることと、どちらが幸せだろうか、ということだ。

単純に額面で言えば年収600万円なのだけれど、人はそういう風には考えられないということが経済学では示されている。

 

しかし実は、当の本人である僕自身が、相対的に恵まれれば幸福になるという心持ちがわからない。

僕はむしろ絶対的幸福が欲しいから努力してきた。

その絶対は、他人と比べるようなものではない。

誰かよりもいい生活をしたいのではなく、僕がしたい生活をしたい。

誰かよりも自由がほしいのではなく、僕が考える自由が欲しい。

年収500万円よりも600万円の生活がしたいのではない。人に命令されずに糧を得たかったし、時間にとらわれずに想いを巡らせたかった。

それは相対の中にはなかった。

だから僕は期待されることがとても嫌だった。

 

期待とはつまり相対の中にある。

絶対が基準の人は期待をしない。

このことがわからない人が、なぜ多いのか、僕にはそもそもそこからが理解できない。

 

端的に言えば、スポーツ競技の応援をするという人はすべて相対の人だ。

だからスポーツ競技の応援をする人と僕は理解しあえるとは思っていない。

あなたはどうだろうか。