話の束

本業のかたわら、たまに本も書いています。それとは別で、きままにエッセイとか小説とか、ぽろぽろと書いてみたいと思いました。

妻が僕の子育てに不満を持つ理由がわかった

イクメンだとか、父親が子育てに参加とか言われているけれど、僕は結構やっている方だ。

妻が仕事で遅い時には洗濯や掃除もするし、子どもの朝ごはんや晩ごはんだって作る。

妻の方が比較的自由時間が多いので、家事の時間は確かに妻の方が圧倒的に多い。

けれども、僕がその間寝そべってテレビを見ているわけではなく、締切に追われて原稿を書いていたり、本業の仕事についての資料を必死で作っていたりする。

そもそも僕はテレビも見なければ音楽もほとんど聞かないし、趣味らしい趣味は何もないので、何もすることがなければ仕事をしているからだ。

まちがえた。

仕事をしているか、風呂に入って本を読んでいるか、だ。

風呂に入ることが僕の趣味かもしれない。休日には普通に三回は入るし。

 

で、そうこうしながら自分はそれなりにイクメンの要素を満たしているとは思っていたのだけれど、どうも妻の機嫌が芳しくない。

そしてその理由にやっと気づいた。

 

妻が子育てに対して不機嫌になるタイミングは、ほぼ同じだった。

それは僕がこういうことを言った時だ。

 

「人生なんてやり直しはいくらでも効くんだから好きにやらせた方がいい。子どもには子どもの人生があるんだから」

 

この言葉は、大きく間違っていることに気づいた。

 

「子どもには子どもの人生がある」

 

僕は自分がそういう感じに育てられてきたので、子どもにもそういう接し方をすべきだと思っていた。

けれども、妻は、それを突き放している言葉だと理解していた。

そして、たしかに僕の中に「突き放している部分」はあるのだ。

 

それは、僕が僕の家族を僕の一部にしかしていないことだ。

それもわりと、仕事と同じか少し仕事よりも重要度が低いくらいに。

僕は、「子どもには子どもの人生がある」といいながら、実は「僕には僕の人生がある」と言っていただけなのだ。

そして妻にはこう聞こえていたのだろう。

「子どもには子どもの人生があって、君には君の人生があって、それは僕の人生とは深く関わってはいるけれど、いつまでも一緒ではないよね」

 

それはたしかに突き放している言葉だ。

このことに気づいて、とりあえず、三人の時間を僕からの発案で増やそうと思った。

人生を一緒に歩く、っていうことは、結婚とか出産の時に、もう少し意識すべきだったんだろう。

期待を示すのは嫌だし、要求もしたくない。

けれども、手を伸ばせばすぐに届くところにいるためには、僕の方からもう少し近づかなければいけない。そのためには、あまり合理的にならずに、小さなことだけでも要求してみるべきなんだろう。

 

 

 

 

こんなことは妻にも子どもにも伝えていないけれど。