話の束

本業のかたわら、たまに本も書いています。それとは別で、きままにエッセイとか小説とか、ぽろぽろと書いてみたいと思いました。

窓の内と外

僕はベランダでたばこを吸う。

ベランダに出るとき、三つあるサッシを内側から閉める。

リビングと、寝室と、娘の部屋と。

「まだたばこ吸うの?」

妻と娘が僕に苦言を呈する。無視をして、後ろ手にサッシをしめて、らんかんにもたれる。

紫煙ににじむ夜景は僕の心をなぐさめる。

 

たまに、外からサッシを閉める。

ベランダに出てから、3つのサッシを閉める。

妻と娘は、僕に何も言わない。

そうして僕は、窓の外から妻と娘を眺める。

 

それは、手に入らない景色のように見える。

同じことを、別の手順でしているだけなのに。

 

そうして僕は、やっぱり煙草に火をつける。

東京は仮住まいのにおいがしすぎる

仕事柄、東京へやってくる。だいたい週に1回程度。

その都度、裏通りを歩く。

 

僕の仕事が一段落するのはたいてい夜半過ぎだ。

となれば遅い夕食の場所も限られてくる。

そうしてたどり着いた店には、いつもきまって同じような人たちがいる。

ぎりぎりまで話し合いたい女性客たち。

もう終わってしまっているカップル。

そんな人たちに挟まれて、僕は一人で遅い夕食をとる。

 

僕が常宿にしているのは、六本木よりは麻布。

新橋側よりも京橋寄りの銀座。

そのあたりの、比較的安いホテルだ。

麻布というと高いホテルをイメージするかもしれないけれど、たとえば今日の宿泊は5900円。そんなホテルだって麻布にはある。

銀座はそれよりも少しは高いけれど、予約タイミングを間違えなければ1万円以下で泊まれる。

そうして僕は、夜半を過ぎて、胃袋を満たすために裏通りを歩く。

今日は麻布だけれど、「山忠」に行くには時間が遅すぎて、「こま」へ向かった。

洒落た街並みには似合わない古びた居酒屋だ。食べログでは点数が高いようだ。

けれども点数に騙されてきたカップルが顔をしかめるのを何度も見た。

 

僕は瓶ビールからはじめる。

幸か不幸か親にもらった肝臓がつよい。だからビールを口湿しに、焼酎をロックで頼む。そうして、ビールを和らぎ水代わりにする。それがいつもの僕のやり方だ。

定番のポテサラ。

それにいぶりがっこ。つけあわせのマスカルポーネチーズは、あうのかあわないのかよくわからない。

串焼きを頼みながら、もらいものの文庫を開く。シャトゥーンだ。人が生きながら食われるシーンに描写のうまさを感じる。でもとりあえず肉の注文はひかえたくなる。

 

そうして僕一人だけになってから、店をあとにする。

 

僕が歩くのはいつも夜だ。

それも裏通りばかりだ。

華やかな店が何もない、マンションが並んだ細い道を歩く。麻布のマンションは、どこも外に洗濯物を干していない。道を歩くよいどれもいない。隠れ家のようなダイニングがところどころにあって、ランチ時にはがらがらなくせに、夜だけはいっぱいになっている。こういう店にはまた違う客たちがいるのだろう。

さっきまで読んでいた文庫をポケットに、僕は歩く。

 

大きなマンションや、細いアパートを見上げながら歩き、そうして気づいた。

 

これは仮住まいなんだなぁ、と。

 

ここに住んでいる彼ら、彼女らはきっと、20年後にはここにいない。

それは賃貸の更新年とも関係するのだろう。

でも、それだけではない理由があるのだろう。

定住するには、東京の街は物語を求めすぎる。

そして人は、過去の自分の物語に耐えられなくなる。

そうして、別のところへ移り住むのだろう。

 

東京は、仮住まいの街だ。

そして、多の人が肩を張って生きている。

誰しもきっと定住がしたい。

今住んでいるここを自分の街にしたい。

そう思いながら、やがて別の街へ移り住む。

 

やがてたどりつく街には、積み上げてきた物語がない。

そこで暮らす人々は、どんな思いで生きるのだろう。

東京じゃない地方に住む僕は、物語のない東京の夜がさびしくて、だから光を避けて歩くのかもしれない。

生まれる前の話

娘は、生まれる前の話を嫌がる。

 

僕が子どもの頃の話。

僕と妻とのなれそめ。

新婚旅行の話。

 

楽しかった話ほど、両手で耳をふさいで首を振る。

笑いながら「なぜいやなの?」と聞いてみた。

 

「私がいない世界があるなんて言わないで」

 

 

 

それは死に似ている。

 

マイナちゃんとくーちゃん

「あなた、くーちゃんって知ってる?」

 食卓で少し得意げに質問してくる妻。

 それに対してふふん、と鼻で笑う私。

「マイナちゃんの犬のことだろ?知らなかったのかい?ふふん。」

 そう答えた時の妻のしてやられた、という顔が目に浮かぶようだ。

 そンな妄想をしながら、あえて隣の奥さんとマイナちゃんに少し遅れて家に戻る。マンションの共有廊下で後をつける形になるのが嫌だからだ。

 

 そうして誰もいない共有廊下から自宅の扉を開く。

「ただいま。」

「はーい、今洗濯物とりこんでるからお風呂入っててー。」

 ベランダから妻の声がした。

 いやな予感。

 しかしまあ、風呂に入りたかったのも事実だ。いつものように替えの下着とバスタオルが用意されている。

 入浴剤はにごり湯シリーズだ。うんうん。

 ゆったりと湯船でくつろいで部屋に戻る私。

 食事は既に準備されており、妻がビールを両手に台所から顔を出した。

「あなた、マイナちゃんと一緒だったんですって?」

 くすくすと笑う妻。

 愕然とする私。あわててとっておいた情報をひけらかそうとするが、言葉がうまく出てこない。

「あ、いや、くーちゃん…」

 ビールを一本空け、私のグラスにそそぐ妻。

「ああ、隣の犬ね。ミニチュア・ダックスフントでしょ?二週間前くらいから飼ってるみたいね。あなた犬嫌いだっけ?」

 私のグラスにビールをつぎおわり、自分のグラスに注ぐ妻。

 今日来たと思っていたけれど、そうじゃなかったのか。なんだ、それは。一言ぐらい隣に挨拶があってもいいじゃないか。

「いや嫌いじゃないけど…」

 かろうじてつぶやく。自分の表情はよくわからない。

「じゃ、管理人さんに余計なこと言わないでね。私犬好きなんだから。」

 ちん、とグラスを合わせる妻。あわててグラスを手に、飲み干す私。風呂上りの一杯は本当にうまい。いやそうじゃない。

 そう思いながら妻の顔をみると、やはりくすくす笑っている。

 マイナちゃんにかなわない私は、もちろんのこと、妻にかなうわけがないのだった。

 

マイナちゃんとわんわん

 ある日私は、仕事が早く終わったため、6時くらいにマンションに戻ることがあった。するとたまたまだが、隣の奥さんとマイナちゃんとエレベーターで一緒になった。奥さんは大きなダンボールのような箱を抱えている。

「こんにちは。」

 少し無愛想な私。別に無愛想にしたいわけではないけれど、よその奥さんに笑顔であいさつするのも気がひける。

 それに対して、ありきたりの会釈を返す奥さん。まあそんなものだ。私もうちの妻がよそで満面の笑顔を見せてたりなんかするのはいやだ。ちなみにマイナちゃんは私には興味がないらしい。お母さんとだけ話している。

 少しさびしくなったので、マイナちゃんに声をかけた。

「マイナちゃん、お魚元気?」

 マイナちゃんは私にふりむき答えてくれた。

「マイナのわんわん!」

 指は奥さんが抱えているダンボールを指している。この子と会話がなりたたないと判断したのはこの時が最初だった。

 しかしちょっと待て。

 わんわん?

 奥さんの顔をみるとひきつっているのがあきらかにわかる。うちのマンションはペット禁止なのだ。こないだもそれで住民の間でもめた。まあ、もめるくらいだから、何割かの家はペットを飼っているということだ。

 そういえばマンション内アンケートの結果を見たが、いろんなペットがいるらしい。さすがに大型犬はいなかったが、ペットのアンケートに金魚と答えた家もあった。金魚は果たしてペットなのだろうか?

 話がそれた。

 ペットは嫌いな性質ではないが、隣の部屋にいるとなれば話は違う。これは問い詰めねば。そう思い、マイナちゃんに尋ねた。

「わんわんのお名前は?」

 なぜかそんな問いをしてしまった。

「くーちゃん!」

 満面の笑みである。

 私は、会話がなりたったので少し嬉しかった。

「静かにさせますのでよろしいでしょうか?」

 隣の奥さんがおずおずと尋ねてきた。

「まあ放し飼いはやめてくださいね。」

 無愛想に答える私。

「くーちゃんと寝るの!」

 どうもマイナちゃんは人の話を聞かないらしい。

「くーちゃんは女の子?男の子?」

 笑顔(になっているであろう表情で)でたずねる私。

「男の子!」

「じゃあマイナちゃんはおねえちゃんだね。」

「違うよ!マイナはお父さん!」

 また良くわからなくなった。

 そうこうしているとエレベーターが到着してしまった。

「じゃ、どうも。」

 そそくさと出て行く隣の奥さん。

 無愛想に会釈する私。

 マイナちゃんネタで妻に一歩先んじて嬉しかった私は、不気味に微笑んでしまっていたかもしれない。

マイナちゃんと旅立ったおさかな

 それから数日後、いつものように妻が洗濯物を干しているとマイナちゃんがやってきた。

「おねーちゃん!おねーちゃん!」

 そろそろあきらめだした妻は、洗濯物の手を止めて、ベランダの間仕切に近寄っていった。そもそもこの間仕切を超えられたらベランダから落ちそうになる。そんなことになったらとんでもない事故になる、という思いもあるらしい。

「どうしたの?マイナちゃん?」

 マイナちゃんは妻が近寄ってくるのを見て笑顔になる。

「あのね!マイナのお魚しゃべらないの!そんでどっかいっちゃった!」

 ちなみに私が妻に買ってきた洗濯ばさみである。それをなくしたことを自慢げに話されても困るのだが。

「そっかー。お魚さんは海へ帰ったのかなぁ?じゃあ新しいお魚さんの友達あげるね。」

「うん!」

 そしてマイナちゃんは(私が妻に買ってきた)洗濯バサミを3つほど新たに手に入れ、間仕切の向こうへと消えた。

マイナちゃんとおさかな

 その赤ん坊がいつのまにかしゃべるようになった。

 なんでも、妻が洗濯をしているとほぼ確実にやってくるらしい。

「おねーちゃん!おねーちゃん!」

 そう叫びながらベランダの間仕切の向こうから顔を出してくるという。

「どうしたのマイナちゃん?」

「おねーちゃん!あそんで!」

 間仕切越しに遊ぶわけにもいかないと思うし、妻は洗濯物を干している最中なのだ。ほっとくとシャツが固まってしまう。固まってしまったシャツは着心地が悪いので早く干さなければいけないのだ。

「マイナちゃん、おねーちゃんはお仕事してるの。だからマイナちゃんはお母さんと遊ぶといいと思うなー。」

「お母さんお昼寝!」

「あらあら、じゃあマイナちゃんもお昼寝したらいいと思うなー」

「マイナ眠くない!」

「じゃあマイナちゃん、お魚と遊んでらっしゃいー」

「お魚って遊ぶの?」

 にっこり笑うと妻は、魚の形をしたせんたくばさみを取りだし、マイナちゃんに手渡した。青や赤や緑のカラフルな洗濯ばさみである。ちなみに私がイタリア出張の時に買ってきたもので、マイナちゃんにあげるためのものではない。

「このお魚さんがねーマイナちゃんと遊びたい!って言ってるの。マイナちゃん、遊んでくれる?」

 しげしげと洗濯バサミをみつめるマイナちゃん。

「このお魚、しゃべるの?」

「そうよ。マイナちゃんが心をこめて遊んであげたらしゃべってくれるよ。」

「じゃあ、お魚さんと遊ぶ!」

 妻はとりあえずその洗濯バサミを3つほど渡したらしい。それからしばらくマイナちゃんは来なくなったそうだ。よく考えるとうちの妻もひどいやつである。